導入事例・実績
レピュテーションリスクは「経営そのもの」
──花王の元危機管理部長が語るSNS時代の危機対応

サプライチェーンの寸断、地政学的リスクの顕在化、パンデミック、そしてSNSを介した瞬時の情報拡散による炎上。企業が直面するリスクの様相は、ここ数年で劇的に変化した。かつては災害や業務上のトラブルといった「目に見える危機」への対応が中心だったが、現在では一つのSNS投稿や対応の遅れが、企業の評判を一瞬にして失墜させる時代となっている。
「危機管理は、もはや経営そのものと捉えるべき段階に来ている」と花王株式会社で危機管理部長を務めた牧氏は語る。本稿では、牧氏へのインタビューを通じて、現代における危機管理という専門組織が果たすべき役割と、SNS時代に求められるレピュテーションリスク対策の実践、そして外部専門家を効果的に活用するタイミングと方法について探る。
プロフィール
牧 宏至 氏
約30年にわたり花王株式会社に在籍し、システム部門・事業部門・経営戦略部門の三領域を横断してキャリアを形成。タイおよび中国での海外駐在を含め、国内外の販売・マーケティング・システム・コーポレート戦略を幅広く担当。アジアでのERP導入を皮切りに、アジア一体運営による収益改善成果に貢献。グローバル一体運営体制の構築ではPMOとして導入フェーズをリードした。これらの広範な実務経験を活かし、2017年からリスクマネジメントにたずさわる事になり、2022年から危機管理部長として全社ERMおよびレピュテーションリスク対応を統括。現在は産業機械・インフラ系メーカーのシステム統括部 戦略企画部長を務める。
「危機管理責任者」の背景と役割
VUCA時代が促した危機管理部の設置
VUCA時代の到来は、危機管理を「専門部署の業務」から「経営の中核機能」へと押し上げた。化学品工場を多数抱える花王では、もともと生産現場の事故や震災など自然災害へのオペレーションリスク対応に高い水準のノウハウと体制を整えていた。
しかし、2013〜2015年前後、中国・上海で牧氏が衣料用洗剤事業責任者を務めていた頃から、事業環境は大きく様変わりする。中国経済・政治の転換による地政学リスクの高まりに加え、電子マネーやSNSなどITの急速な普及により、タレント不祥事とSNS拡散によるレピュテーションリスクが一気に顕在化したのである。もはや工場事故や地震だけでなく、広告表現やタレント起用も、一瞬で炎上案件となり得る構造変化が進む。
こうしたVUCAの加速を背景に、花王は危機管理の対象領域をオペレーションリスクにとどめず、レピュテーションリスクや戦略リスクへと拡張していく。その中核を担ったのが、コーポレート部門に設置された危機管理部であり、経営陣と連携しながら全社重要リスクを選定し、役員クラスを責任者とする全社コーポレートリスク管理体制を構築した。
全社ERMの完成を託された危機管理部長
2017年、上海赴任から帰任した牧氏は、花王の危機管理がオペレーショナルリスク中心のリスク管理から戦略リスクやレピュテーションリスクを含む全社ERMへと進化し始めたばかりのタイミングで危機管理部に配属された。担当部長として、全社ERMの設計・運用、レピュテーションリスク対応体制の構築を主導。2022年に危機管理部長に就任してすぐに新型コロナウイルスの出口戦略やウクライナ侵攻といったグローバルレベルのインシデント対応を主導した。
就任時に経営層から期待されたミッションは明確だった。道半ばだった全社ERMを「最終形」に仕上げ、経営戦略を支える強固な基盤として確立することである。
花王では、統合報告書にもある通り、各リスクに責任者(役員クラス)を明確に割り当て、対策検討チームを作り、経営に対して定期的な進捗報告を義務化。コーポレートリスクは毎年見直し、年末の経営会議で更新する運用ルールを敷くことで、「危機管理=経営アジェンダ」という位置づけを社内に定着させていった。
「人・もの・金・情報」を扱う立場と設計する立場の双方を経験してきたことが、危機管理責任者としてのインシデント対応の判断や全社ERM設計に大きく寄与したと牧氏は振り返る。危機管理を一部門の管理業務としてではなく、経営インフラとして設計できる人材をどうつくるか。経営資源と事業現場、そして全社ガバナンスを横断的に理解した人材の育成は、多くの企業に共通する課題になりつつある。
直面した「見えないリスク」という課題
「まず危機管理に相談」という組織文化の醸成
全社ERMを「最終形」に仕上げるミッションを達成するために、牧氏がもっとも重視したのは、初動段階で情報が自身に集約される仕組みの構築だった。具体的には、花王の組織の各層に張り巡らせたネットワークと、そこから生まれる信頼関係である。
「危機管理は、とにかく初動がすべて。『まずは危機管理に相談すればよい』という状態を全社でつくれるかどうかが、責任者としての勝負どころだと思っていた」と牧氏は振り返る。
この思想を実現するため、牧氏は花王の経営幹部、事業部長、ブランドマネージャー、コーポレート部門長といった意思決定層だけでなく、現場のキーパーソンとも平時から積極的に接点を持った。「どんなわずかなことでもまず相談が来る状態」をつくることで、組織風土を事後対応型から予防的な事前相談型へと転換していった。
どんな相談も「軽い」とは決めつけない──ゼロトラストの視点
牧氏が花王におけるリスク管理において徹底してきたのは、報告された相談内容の大小にかかわらず、すべてを真摯に受け止める姿勢だ。
「相談が寄せられた時点で、それは当事者にとってもっとも重要な問題です。些細だと判断して見過ごしたことが、後に重大なインシデントへと発展するケースは少なくありません」
同氏はリスク管理を「ゼロトラスト」の視点で捉えるべきだと強調する。初期段階での対応を誤れば小さなリスクが危機に拡大する一方、適切な初動によって大きなリスクも最小限に抑えられるからだ。
同氏が花王で実践してきた原則はシンプルだ。インシデント発生当日に初動を開始し、その日のうちにできる限り「担当者・期限・実施内容」を明確化し、アクションをとる。遅くとも2〜3日以内に鎮火させる。対応案件の優先順位の選別に時間を費やすより、報告された案件を迅速かつ丁寧に処理することを重視してきた。
膨大な「顧客の声」とどう向き合うか
デジタルツールを連動させたエスカレーション設計
花王におけるレピュテーションリスク対応では、全社のあらゆる事業活動が対象となる。牧氏は次のような仕組みで初動体制を整備した。
第一報は必ず危機管理部長に集約される。専用の報告フォームには、法的リスクの有無、メディア露出の可能性、炎上の有無、その他経営への影響度などをあらかじめ選択式で回答できる項目を設け、報告者の負担を軽減しつつ情報の抜け漏れを防ぎ、すぐに報告内容の緊急度を判断できるように工夫した。
また、報告フォームに入力された情報は、全社チャットの専用グループへ即座に自動配信される。これにより、対策チーム内での迅速な情報共有が可能となり、報告内容は自動的にインシデントデータベースに蓄積される。対応完了後は、対策や反省点をデータベースに追記する。個人の経験を「形式知」や「組織知」へと変えることで、全社で活用できるナレッジ共有の仕組みを構築した。
単独で判断可能な案件については即座に対応を指示する一方、広報・法務・消費者相談窓口・事業部門・マーケティング部門などの対策検討に関わる部門責任者を招集すべきケースでは、すぐに招集をかけ、1〜2日以内に具体的なアクションプランへ落とし込むことをルール化していった。
経営層への報告基準を明文化
花王における経営幹部への報告についても、牧氏は明確な基準を設けた。以下のいずれかに該当する場合は、同氏の判断で社長・経営幹部・常勤監査役へ第一報をする。
・SNS上での炎上が予見される(ネガティブ投稿をモニタリング)
・重大な事業影響が予見される
・メディアによる報道が予見される
「詳細は後から担当部署が報告します。経営層にはまず『何が起きているのか』『どこまで想定しているのか』だけを共有するルールにしました。そうしなければ、経営層への報告プロセスだけで初動が遅れてしまいます」
炎上案件やタレントの不祥事などは世の中に知れ渡るスピードの方が速いので、いち早く経営層の耳に入れておかないと、ニュース速報など外部から知ることになってしまう。導入当初は現場から抵抗もあったという。しかし、運用を重ねて経験値が蓄積されるにつれ、「面目より初動」という文化が花王の組織に定着し、フローとして機能するようになったと牧氏は振り返る。
以前にシエンプレ社開催の勉強会で講演させて頂いた際にもお伝えした事になりますが、重要なのは「し・た・じ」の速さが重要となります。つまり、(し)初動の速さ、(た)対策立案の速さ、(じ)実行の速さの3つです。そして初動を速くするために連絡フローを完備し、キーパーソンをアサインした対策チームを作り対策立案を速くし、主管部門を速く決めて関連部門と連携させて実行を速くする事で炎上事案を早く鎮火できます。
「リスク対策」が「サービス改善」に繋がった瞬間

相談件数は変わらず、炎上ゼロを実現
牧氏の取り組みの成果は数字に表れている。花王におけるレピュテーションリスクに関する年間相談件数は大きく変わらないものの、大規模な炎上事案はゼロという状態を実現した。これは、リスクの芽を小さいうちに捕捉し、適切な予防策を講じることができた証左と言えるだろう。
危機管理部門の価値は、インシデントが発生してから測られるものではない。むしろ、インシデントを未然に防ぐために日常的に機能しているかどうかで評価されるべきである。牧氏の花王における実践は、危機管理責任者の本質的な役割が、ネットワーク構築と信頼醸成にあることを示す好例と言える。
SNS時代における表現の最適解を模索する
SNSが普及した現代のマーケティング環境において、企業は難しい選択を迫られている。消費者の記憶に残る強いメッセージを発信したい一方で、表現の行き過ぎによる炎上リスクも無視できない。
牧氏は、花王のブランド担当者やクリエイティブチームとの綿密な対話を通じて、表現の「攻め」と「守り」のバランスを取ってきた実務家である。同氏によれば、広告表現には変更可能な要素と、変更するとコンセプトそのものが損なわれる「コア表現」が存在するという。特にコア表現にリスクが内在する場合、想定されるリスクシナリオを関係者と共有しながら、丁寧に検討を重ねる必要があると指摘する。
外部専門家の知見を「答え合わせ」に活用
こうした判断を支える仕組みとして、牧氏が花王で注目したのが外部専門家の活用だ。具体的には、シエンプレなどの専門機関によるクリエイティブチェックやSNS炎上対応のコンサルティングサービスである。
花王社内に十分な経験値や対応事例のデータベースが蓄積されていない初期段階では、広告表現やコピーの妥当性、さらにはSNS上での適切な謝罪方法といった実務的なノウハウについて、外部の知見を参照することが意思決定の精度向上に直結した。また、EC事業における特殊詐欺や、法務・コンプライアンスに関わるSNSトラブルについては、シエンプレのネットワークを通じて専門性の高い弁護士の紹介を受けるなど、リスクの性質に応じた専門家ネットワークの構築を進めてきたという。
第三者視点が組織内の意思決定を後押しする
外部専門家の活用には、もう一つ重要な効果がある。牧氏は「クリエイティブチェックのレポートは、花王社内マーケターの意見よりも重く受け止められる傾向がある」と語る。特に上層部やクリエイティブ責任者に表現の修正を促す必要がある場面では、第三者機関の客観的な所見が強力な説得材料になるのだ。
危機管理は本質的に「正解のない領域」である。自社の感覚だけで判断を続けていると、視野が狭くなり適切なリスクを評価できなくなる恐れがある。牧氏は、外部専門家を「壁打ち相手」として常に身近に置き、継続的に対話できる関係を構築することの重要性を強調する。攻めの広告戦略とレピュテーションリスク管理を両立させるには、内部の創造性と外部の客観性を組み合わせた、柔軟な意思決定プロセスが不可欠なのである。
元花王の危機管理責任者としての提言
企業を取り巻くリスク環境が複雑化・多様化する中、危機管理のあり方そのものが問い直されている。牧氏は、花王での経験を基に、大手企業の経営者、広報部長、リスク管理部門長に向けて、これからの危機管理に求められる視点を三つの提言にまとめた。
危機管理を「CRO機能」として経営に統合する
危機管理部という経営戦略を掲げている限り、組織内では「一つの部門」として扱われる傾向がある。しかし実態として、危機管理は戦略、オペレーション、レピュテーションという企業活動の全領域を横断する機能である。その本質を踏まえれば、危機管理は「経営そのもの」と言っても過言ではない。
グローバル企業では、最高リスク管理責任者であるCRO(Chief Risk Officer)が経営の一角を担い、全社的なリスクを俯瞰する体制が一般化している。花王の事例が示すように、日本企業においても、危機管理をCRO的な役割として経営層に位置づけ、グローバルな視点からリスクをマネジメントできる体制の構築が急務となっている。
リスクシナリオの「解像度」を高める
「有事が起きたら大変だ」という漠然とした危機感だけでは、実効性のある対策は生まれない。牧氏は、花王での実践を通じて、リスクシナリオの具体性こそが、危機管理の質を決定づけると指摘する。
例えば地震リスクを想定する場合、南海トラフ地震なのか首都直下地震なのか、あるいは半割れシナリオや全割れシナリオなのか、震源地によって取るべき対策も優先順位も大きく異なる。サイバーセキュリティについても同様で、攻撃経路の想定や自社システムの脆弱性を具体的に特定しなければ、対策も専門家の選定も曖昧なままになってしまう。
「リスクシナリオが具体的でない限り、社内の議論は堂々巡りになる。シナリオの解像度を上げるだけで、見えてくる世界は大きく変わる」と牧氏は強調する。抽象的なリスク認識を実行可能な対策に落とし込むには、まずシナリオの精緻化が不可欠なのである。
「未知の未知」を前提とした専門家ネットワークの構築
組織は内部の変化には敏感である一方、社会全体や他業界の動向には気づきにくいという構造的な盲点を抱えている。ラムズフェルド元米国国防長官が提唱した「未知の未知」の概念に立てば、企業には「自分たちが知らないことすら知らない領域」が必ず存在する。
この認識に基づき、牧氏が花王での経験から推奨するのが、分野別の専門家ネットワークの事前構築である。SNS炎上対応、リスクコミュニケーション、危機管理全般、サイバーセキュリティ、地政学、警察対応、保険、コンプライアンス法務など、それぞれの領域に精通した専門家との関係を平時から構築しておくことが、有事における初動の速さを左右する。
「危機管理担当者には、見えないリスクの将来を想像するイマジネーションが求められる。そのためには、自分よりも広い知見と経験を持つ専門家と、日頃から対話を重ねておくことが不可欠だ」と牧氏は結ぶ。
経営アジェンダとしての危機管理
三つの提言に共通するのは、危機管理を単なる「守り」の機能として捉えるのではなく、経営戦略の中核に位置づけるべきだという視座である。不確実性が常態化した現代において、リスクを適切にマネジメントできる企業こそが、持続的な成長を実現できる。
初動を制する者が危機管理を制する──この原則を組織に根づかせることこそが、次世代の危機管理部門に求められる姿なのである。牧氏の経験が示すように、経営層には、危機管理を経営アジェンダとして再定義し、組織全体の能力を底上げする決断が求められている。
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